勘兵衛さんが大須に移住した享保十七年(一七三二)には目安箱投書の制が定められ、庶民の声がじかに将軍の耳に達するようになった。 このころ江戸では、大岡越前守が「大岡裁き」で名判官ぶりをうたわれていた。年表によると越前守は勘兵衛さんより七歳ほど年上である。今度の話もまた力自慢である。
或る朝沖の方がバカにさわがしいので勘兵衛さんは目をさました。海辺へ出てみるとどこかの藩船らしい千石船が暗礁にのし上げていた。船子が七、八人海に入って船をおしている。船頭は青くなって「早くしろ、潮がひくと船が沈没するぞ」とどなっている。その後では目を血走らせた身分の高いようすの武士が、「此の積荷を沈めたら拙者は切腹だ。その時には貴様ら一人残らずぶった切るぞ」と叫んでいる。船子たちは必死で船を押すが足場が悪いので力がそろわない。さげ潮に船はますますかたむいていく。 見かねた勘兵衛さんは、 「みなの衆どかっしゃい。わしは勘兵衛だ」 と言いながら海に入って行った。 「エッ、勘兵衛。それではここは大須だったのか」 勘兵衛のうわさを聞いていたらしく、船子たちは喜んでおかへあがった。船首に肩を当てた勘兵衛さんは渾身の力をしぼって「ヤッ」とばかりかつぎあげた。 「ズルズルー」船はみごと岩からすべり下りた。 「ウワー」船子たちはおどり上がって喜んだ。 「かたじけない勘兵衛、拙者の恩人だ」 武士は涙を流して礼を言った。
うれしそうに出港する船を見送っている勘兵衛さんのそばには、武士がお礼にと置いていった米俵が幾俵もつみ上げられていた。
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