天保のころ(江戸時代)、旧飛渡瀬村にとても力の強い人がいたそうです。この力持ちがどんなに強かったかを後世に伝えるためにはどうしたらよいか、村人たちが集まって相談しました。その結果、三角の形をした、抱え上げるのにちょうどよい大きな石がありましたので、それに「力石」と彫り込んで、新宮八幡神社の一の鳥居から本殿まで一人で負い上げてもらおう、ということになったのだそうです。 いよいよその日がきて、村人たちは大勢で「力石」を一の鳥居まで運びました。力持ちはみんなの声援に励まされながら、やがて石を背負って立ち上がり、一段、二段……と石段を登り始めました。ところが、どうしたことか二〇段ほど登ったところで座り込んでしまったのです。人々は力の限り声援を送りました。力持ちも何とか立ち上がろうとしました。しかし、二度と立ち上がることはできませんでした。飛渡瀬村の人たちは、「きょうは身体の具合が良くなかったのだろう」と力持ちをいたわって、後日改めてまた負い上げてもらうことにしましたが、自信を失った力持ちは、それっきり負い上げることを断念してしまったのだそうです。
村の代表が、そのことを新宮八幡神社の宮司さんに話しました。すると宮司さんは、「大原の曽根蔵なら負い上げることができるだろう。曽根蔵に相談してみてはどうか」
と言われたそうです。さっそく曽根蔵を訪ねて頼んでみましたが、曽根蔵は、「せっかくここまで事を運ばれたのではありますが、急ぐことはないので、よく考えさせてください」と言って、受けようとはしませんでした。 それからしばらくして、宮司さんといっしょに村の代表がもう一度曽根蔵を訪ねて、「力石をあのまま放置して置くわけにはいきませんので、ぜひあなたの力で負い上げていただきたい」と頼みましたら、 「それほど言われるのでしたら、お引き受けいたしましょう」 と、こんどは快く承諾してくれました。
その時、曽根蔵はすでに六十歳になっていました。それでも力石を背負って、最後まで石段を登り切り、本殿の下に築かれた土台に据え付けることができたのだそうです。
その当時、力石には真ん中に「力石」とだけしか刻んでありませんでしたが、その後、誰かがその右側に「天保三年(一六四六)辰十月二十三日」、左側に「原田曽根蔵」と彫り付けて、曽根蔵の名を後世に伝えたということです。その力石は現在も新宮八幡神社の本殿の下に据えられています。
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