小古江では昔から、大原の明慶寺の門徒が六割、飛渡瀬の妙覚寺ほかの門徒が四割で、お寺へお参りするのに大変遠くて不便でした。「なんとかしたい」と皆で相談したところ、小古江の阿弥陀堂を再建して大きくしたらどうか、という案が出たそうですが、当時の村の財政状況ではとても無理でした。そこで、いろいろ探索した結果、宮島に空き寺があることがわかり、それを頂くことになったのだそうです。 その空き寺は、芯芻瑞憧和上が真言宗宝寿院の住職を引退した後、宝寿院の裏の断崖に和上の坊として建てられた福寿院だったそうです。文政二年(一八一九)の建立だったことは、天井の四十九種子曼陀羅の裏面・書き付けでわかりました。 明治二十年(一八八七)四月、村を挙げての勤労奉仕で極めて危険な解体工事を行ない、五隻の帆船を仕立てて小古江まで運んで帰りました。そして、阿弥陀堂社倉の跡地(現在の御堂屋敷)に建てられたのです。以来、お聴聞の会場や寺子屋として、また村民の心の拠り所として親しまれてきました。
ところが、時代の移り変わりとともに村人の住まいがだんだん浜地区へ移って行ったため、お堂を浜地区へ移そうという話が持ち上がりました。その時は村を二分するほどの大問題になったのだそうです。これを憂慮された澤病院の初代院長・澤益夫先生が自宅の一部を寄贈され、先生の奇特なお計らいによって、明治四十二年(一九〇九)四月(石碑に銘記)、ようやく現在地へ移設されたのです。村民は今日に至るまで、澤益夫先生に厚い感謝の気持ちを抱き続けています。
本堂内陣の天井画はなかなか見事なもので、私どもの心を癒してくれる大切な場になっています。
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