能美町鹿川は、江戸時代には東能美島鹿川村でした。この村の大矢に、藤浦山という小さな山があります。この山には昔から矢竹が生えていました。節と節の間が長く、根元から先までの太さがほぼ同じで、しかも節の所が細いので、矢を作るのに適しています。この竹を矢篦竹と呼んでいました。 享保二年(一七一七)、第五代広島藩主・吉長の時、藩がこの矢篦竹に目を付け、「御留山」に指定して、毎年質の良い矢篦竹を納めるように命じました。御留山というのは木や竹の伐採を禁止された山で、村人たちには、燃料や肥料にする落ち葉や下草の刈り取りしか許されませんでした。村人には大変迷惑な命令でしたが、もし掟を破ったら厳しい罰を受けることになります。
ある年の晩秋、竹を切るのに最も適した十一月のことでした。山守が藤浦山の見回りに来て、矢篦竹が二〇本ばかり盗まれていることに気が付きました。さあ大変です。村にとっては一大事でした。山守をはじめ村役人や村の責任者総出で尋ね回ったところ、八幡神社の祭礼当番に当っていた村(当番村)の若者たちが、祭礼に使う横笛を作るために切ったことがわかりました。村役人たちは藩の奉行所へ出頭して、事の次第を恐る恐る申し上げ、平身低頭してお許しを乞いました。お奉行は目をつぶって話を聞いていましたが、 「若者たちが盗んだのは、八幡神社の祭礼のためであって、私利私欲からではないことがわかった。盗んだのはよいとは言えぬが、処罰するほどのことではない」 と、許してくれたのだそうです。その上、
「八幡神社の祭礼が盛大に行なわれるのは大変喜ばしいことだ。祭りを助ける意味で、今後毎年、当番村へ御矢篦竹二〇本を下げ渡す。良い笛を作れよ」
と、有難い思し召まで賜ったのでした。村役人たちは涙を流して喜びました。
御矢篦竹で作った横笛によって、八幡神社の祭礼はその後一段と盛大になったと伝えられています。
|