宮島の管絃祭は、毎年旧暦六月十七日に行なわれます。たとえ雨や風があっても、中止されたり日取りを変えられたりしたことはありません。管絃祭四百年間の記録の中には、四回ほど大夕立や風雨の強い日があって、お祭りの行事が十分に出来なかったことがありましたが、それでも管絃祭(御座船)の渡御は止めなかったと伝えられています。 その四回の悪天候の中で一つだったのでしょう、元禄十四年(一七〇一)、浅野内匠守が殿中・松の廊下で吉良上野介に切りつけた年の管絃祭のことです。御座船を中心にした管絃船団が地御前へ渡御し、神事を済ませて厳島へ帰る途中、にわかに天候が変わって大嵐になりました。船団は風雨にあおられて散り散りになり、御座船は前へ進むことも引き返すこともできません。海水がどんどん入って来て船は水浸しになり、お祭りの大切な道具も流されそうになりました。
その時、一艘の漁船が荒波の中を巧みに船を操って御座船に寄り添い、救助を始めたのです。その漁船に乗っていたのは、能美の十三郎と新助でした。二人の必死の働きによって、御神体をはじめお祭りの道具類はすべて漁船に移されました。そして、江田島幸ノ浦の田頭新蔵は、その嵐の中でただちに「かがり火」をたいて宮島大鳥居の位置を知らせ、御座船は無事厳島神社へ着くことができました。神職たちの喜びは大変なものでした。そして、十三郎と新助・新蔵に、 「何か褒美をやりたいが、何がよいか」 と尋ねました。十三郎と新助は、 「何も要りません。……どうしても、とおっしゃるのでしたら、網を干す網干場を賜りたい」 「それは、たやすいことよ」 と、地御前の沖の小島の浜を賜りました。その後、この浜は「十三が浜」と呼ばれるようになり、現在もその名が伝えられています。
また、厳島神社の御紋を印した提灯が下賜され、管絃祭の献灯・御用船として毎年御座船のお供をするように、という名誉も授けられました。それ以来今日まで三百年間一度も休むことなく、高田・江田島から管絃祭の御供御用として「献灯」・「御座船」の奉仕を続けています。
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