沖上雛吉は天保八年(一八三七)、中村長石の農家に生まれましたが、幼いころに母親と死に別れました。父の藤藏はまだ若く、幼い子どもを抱えていましたので、人の勧めもあって再婚しました。 その継母は大変子ども好きで、気が優しく、また、よく働くしっかり者でしたから、家庭は円満で暮らしも少しずつ楽になっていきました。ところが、雛吉が十五歳の時、藤藏が流行り病で急死してしまったのです。一家の大黒柱を失った雛吉は、「こうしてはおれん。十五歳といえば、わしももう一人前じゃ。オカカン(継母)に心配をかけんように、わしが働いて家を守っていかにゃあならん」と、精を出して働きました。 やがて雛吉も妻をめとる年齢頃になりました。誰にも親切で、気立ての良い働き者でしたから、方々から縁談がありました。雛吉は、「継母と仲良くしてくれるお嫁さんが良い」と、継母の気に入った娘さんと結婚することにしました。
そして、三人の子どもに恵まれましたが、その子が次々と麻疹や天然痘などにかかって、皆亡くなってしまったのです。さらに雛吉が四十歳の時、妻がまた流行り病で突然死んでしまいました。雛吉は悲運のどん底に突き落とされました。
しかし、自分にはまだ継母がいます。亡き妻や子どもたちの供養のためにもと、雛吉はそれまでにも増して継母を大切にしました。もともと信仰心の厚い一家でしたから、家の一日は、お寺の朝事(朝の勤行)に参詣することから始まります。毎朝、継母を助けながらお寺参りをする二人の姿を、村の人たちは温かく見守っていました。ところが、不幸はまだ続きました。ある朝、お寺から帰る途中、継母が転んで足と腰を強く打ち、ほとんど歩けなくなってしまったのです。回復ははかばかしくなく、朝のお寺参りもできなくなりました。それからは、雛吉はお寺へお参りし、継母は家で仏壇に手を合わせるという毎朝が続きました。
ある朝、雛吉がお寺から帰って見ると、継母はまだ仏壇の前に座っていました。そして、「この足さえ歩けるようになってくれりゃあ、寺へ参れるのに…」と独り言を言いながら溜め息をついていたのです。そのあくる日から、雛吉は継母を背負ってお寺参りをするのを毎朝の勤めにしました。
長石からお寺までは約半里(二キロ)、途中に小高い丘がありますから、四十歳を過ぎた雛吉にとっては決して楽な道程ではありませんでした。村人たちは、「半月もすりゃあ止めるだろう」とうわさしていましたが、予想に反して、お寺参りは半月どころか、二年も三年も続くのでした。 しかも、お寺参りだけではなく、お盆のお墓参りやお祭りなどの時にも、雛吉は必ず継母を背負って出かけるのでした。 この孝行ぶりが大層評判になって、「雛吉さんは中村の宝だ」と褒めたたえる声が村の内外に広がりました。そして、大勢の人たちの推挙によって、明治十四年(一八八一)十二月七日、雛吉に緑綬褒章が授与されたのです。雛吉四十四歳の時でした。
この受賞者は、明治十三年(一八八〇)から四十五年(一九一二)までの三十二年間に、全国で僅か一九人しかいなかったのだそうです。中村の人々は受賞を我が事のように喜びました。そして、雛吉の胸に勲章を付けさせ、輦台に乗せて西能美五か村を練り回ったと伝えられています。
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