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| 「高下心中」(能美町・大柿町) |
江戸時代の半ば過ぎ、文政年間のことと伝えられています。
男の人は飛渡瀬村(現・大柿町飛渡瀬)の吉太郎さん。父親が大工の棟梁で、子どものころから父親について方々の普請場へ行き、大工の見習いとして働いていましたが、間もなく独り立ち出来る年になっていて、高田村(現・能美町高田)の普請場へ仕事に来ていました。女の人は中村の高下(現・能美町中町字高下)のお豊さん。美しい娘で年は二十二でしたが、許婚者があったそうです。家事を手伝いながら、糸を紡いでは高田村の木綿問屋へ持って行って、家計を助けていました。その高田村へ行く途中に、門長屋を建てている普請場があったのです。お豊は、大勢の大工にまじって立ち働いている、背の高い若者をよく見かけていました。 ある日、木綿問屋から帰る途中で雨が降りだしました。お豊は近くの軒下に駆け込み、雨宿りをしていました。すると、そっと傘を差し掛けてくれた人があったのです。あの普請場の若者でした。親切は嬉しかったのですが、若い男と肩を並べているのが恥ずかしくて、お豊はお礼もそこそこに雨の中に飛び出し、走って家へ帰りました。 それからしばらくして、お盆がやって来ました。盆踊りには氷屋などの屋台も出て、お寺の境内は大変賑やかになります。ふだんは若い男女の交際は厳しく戒められていましたが、お盆の間は、それもゆるめられていました。宵闇が迫ると、娘たちは着飾って盆踊りに出かけます。踊りの輪が二重、三重にふくらんで、境内が華やぎ、ざわめいてくると、男たちは頃合を見計らって娘たちの間に割り込んで来ます。お豊も艶やかな浴衣姿で踊りの輪に入っていました。すると、隣にすっと肩を寄せて来た若者がいました。あの人でした。お豊は思わずほほ笑み返しました。温かいものが胸をつつみました。やがて二人は踊りの輪から抜け出し、境内の片隅で初めて言葉を交わしたのです。
これがきっかけとなって、吉太郎とお豊は人目を忍んでたびたび落ち合う仲になりました。しかし、どんなに好きになっても二人は結婚できません。その当時は、他村の者とは結婚してはならないという掟があったのです。二人はそのことを知っていました。その上、お豊には親が決めた許婚者がありました。会ってはいけない二人なのでした。それでもお互い強く惹かれ合って密かに逢瀬を重ねているうちに、気がついたお豊の両親は厳しく諫めました。しかし、こればっかりはお豊は耳に入れようとはしませんでした。 そのうち、お豊は身ごもって、日に日に人目をはばかる身体になっていきました。もう家にはいられません。身を隠す術もありません。もはやこれまで! この世で添えないならば、あの世で……と心を決めた二人は、「私たちの骨は、どうぞいっしょに同じ所に埋めてください」と書き残し、抱き合って足高山の池に身を投げました。二人の身体は帯で固く結び合わされていたそうです。 入水を知った親たちは、悲しみの涙にくれながら遺体を引き取って帰り、お豊は高下で、吉太郎は飛渡瀬で、それぞれ離れ離れの土地で荼毘に付されました。ところが、高下から立ちのぼったお豊の煙は飛渡瀬の方へ、飛渡瀬から立ちのぼった吉太郎の煙は高下の方へ流れて行きます。みんな不思議に思って眺めていますと、なびき寄った薄紫色の煙は、高下と飛渡瀬の境にある真道山の尾根の上で一つになり、渦を巻くようにもつれ合ってまわりながら、抱き合うようにして天高く昇って消えて行ったのでした。
そののち、真道山の尾根に、小さなお墓(自然石)が二つ並べ立てられました。誰が立てたものかわかりませんが、折々に村人たちの手で花や盆灯籠が供えられ、お賽銭があげられることもありました。そして、いつとは知れず二人を供養する歌が作られ、やがて盆踊りにも歌われるようになりました。
明治の初め、高田村の山本さんと中村の相野田さんが、その歌詞を集め、整理して正式な盆歌にしたいと考えました。たまたまそのころ、中村に歌や踊りにくわしい旅の人が滞在していましたので、その人に頼んで、歌詞を整え囃子や振付も考案してもらったのが、今に伝わる「高下心中」の盆歌なのです。
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(話者 新宅文夫)
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新宅文夫氏は昭和五年(一九三〇)生まれ。お豊の家の子孫で九代目と伝えられている。
この物語は、新宅文夫氏が語った話を、聞き手の大儀正夫・小宇根達磨両氏が記録、小宇根達磨氏が原稿にまとめたものである。まとめるに際しては、中国新聞呉版「伝承のふるさと」(昭和五十九年(一九八四)五月二十七日)、『郷土の歴史』(能美町青年団・鹿川隣保館若者会編)、『高下心中』(能美町青年連合会編)、『盆踊音頭集』(中町盆踊保存会・高田盆踊保存会編)を参考にした。
吉太郎とお豊の墓は、やや大きめの苔むした自然石で、小石を敷いた上に据えられている。この墓は長い間放置されたままになったいた。昭和三十四(一九五九)、五年(一九六〇)ごろのこと、中町の年寄から、「盆踊にも歌われとるのに、あんたが先祖の供養をせにゃあ」と促されて新宅文夫氏が初めて山へ分け入ってみた時には、墓は羊歯(うらじろ)や雑木の陰になって暗がりに埋もれていたという。不憫に思った新宅氏は墓所を整備して石碑を建てた。碑文の文字は能美町の書家・故早稲本武雄氏の筆である。
中町盆踊「高下心中」の歌詞を、中町盆踊保存会・高田盆踊保存会編『盆踊音頭集』(平成二年(一九九〇))から転載、紹介しておく。 |
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いにしえは
ただ蒔き初めし恋の種 今は情の花も咲く いとしや可愛いや色盛り
吉太郎というて職人の ぶってらとしてしゃんとした 当世風の色男
四、五年前からそこやここ 稼ぎ世渡りするうちに 在所山家のお豊さん
歳は二十二の萎れ花 雨に萎るる立姿 可愛らしやと思うたが 縁と因果の始めぞや
つい徒惚がほんとなる ほんの夫婦になりたやと 思う心がままならぬ
ままにならぬは世の習い ほんに今まで世の人と 辛い辛いと言う際も
恋は如何なる苦を病むものぞ 羨まるるを楽しみに 暮すわいのとばかりにて
前後正体なかりしが さいも私も大胆な 親様達の目を忍び 許婚者ある娘子が
小意気過ぎてのさざめごと 恩と我身に数ならん 大事な御身の悪名と
さすがつらいと泣く涙 袖にかくして居たわいな なんぼかくして居たとても
身持の程がかくされぬ 広い世間に御殿とは 器量のよいのはなんぼでも
あるとは聞けど貴方より 外に御殿は持つまいと 仏様や神様に
祈りをかけていたわいな 祈りもかなわずこうなった 思えば思えば情けなや
おはずかしやの事なれば お腹のややも五月ぞ 身二つなれば親様へ
どう言い訳がなりましょや 憎い仲でもあのように 私と貴方が死んだなら
心中者ぞや貞女じゃと 浮名を残す事もある 頃は卯月の末っ方
野も山ものどかなり 鳥のさえずる折柄も 二人の仲の憂き辛さ
真紅の糸の色あげに 野には菜種の花盛り 蝶や小蝶は菜の葉にとまる
落ちてしばしば目にとまる 優しや蝶のひとつがい わしとお前もあの様に
遊びこうして今渡る 死なねばならぬ身となりて すずりに墨をすりながし
筆と紙とを手に持ちて 涙ながらも書き残す 死んだ後での二人の骨を
一緒に埋めて賜れと 書いて残したばかりにて 未練は暗い迷いとや
せめてこの身のあかるきを ともす手燭の光にて 共に手に手をとりようて
足高山に死にに行く 死に行く道を尋ぬれば 道は西方十萬の
あの世の旅の角に立つ 弘誓の船の渡しより 声は六字の彌陀の声
南無阿弥陀佛と唱うれば 哀れはかなきたまり水 |
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| 「高下心中」 |