むかし、村はずれの小さな家に、一人暮らしの老人が住んでいました。十兵衛という名で、女房に先立たれ、子どももおらず、気が向いたら海へ魚釣りに行くのが、ただ一つの楽しみでした。 ある日のこと、十兵衛さんは良い天気に誘われて舟を準備し、ギーコギーコと櫓を漕いで沖に出ました。漁場に着いて早速釣糸を下ろすと、すぐに手応えがあり、引き上げてみると、立派なメバルが釣れていました。大喜びの十兵衛さんが次に釣糸を下ろすと、またすぐに手応えがあり、こんどは大きなキスが釣れていました。さあ大変、次から次へと釣れる上物の魚に夢中になった十兵衛さんは、太陽が西に沈み、餌を付けるのがむずかしくなって、ようやく日が暮れたことに気がつきました。
――さて、これは困ったことになった。 帰るのには遠いし、浅瀬は多いし、暗がりでは危ないので、十兵衛さんは今夜は帰らずに、舟に寝ることにしました。そして昼間の疲れで、いつの間にかぐっすり寝込んでしまいました。 真夜中ごろだったでしょうか、「十兵衛よ、十兵衛!」と呼ぶ声が聞こえました。 十兵衛さんは、
――こんな所で、わしを呼ぶなんて…? と思いながら、うつらうつらとしていました。すると今度はハッキリした声で、 「十兵衛ッ!」 と呼びました。 「誰だッ、わしを呼ぶのはッ!」 と大きな声で怒鳴りました。すると、艫の方でゴソゴソ音がします。見れば、着物はボロボロで、長い髪を肩の下まで垂らし、大きな目をキラキラ光らせた者が舟に乗り込もうとしています。そして真っ赤な口を開けて、大きな声で、 「十兵衛、杓ッ! 杓を貸せッ!」 と言いました。その恐ろしい形相に、十兵衛さんは口もきけず、震えながら杓を取って渡しました。すると妖怪はその杓で、「一杯」と言いながら海水を汲んで舟の中へ入れました。そしてさらに、「二杯、三杯……」と言いながら海水を入れ続けるのです。ビックリした十兵衛さんは、舟底板をつかんで妖怪めがけて殴りかかりました。妖怪と十兵衛さんとの闘いがしばらく続きましたが、そのうちに妖怪はどこへともなく消え去って行きました。空が少し明るくなっていました。 ちょうどその時、朝早く漁場へ向かっていた二人の漁師さんが、十兵衛さんの舟を見つけました。二人は急いで舟に近づきました。見ると舟の中は水びたしで、十兵衛さんは命からがら艫につかまって海に浮いていました。引っ張り上げて見ると、十兵衛さんの顔は傷だらけで、顎は壊れ、右手の指は曲がったまま、右足の足首から先は外側に向いていて、まともには歩けない状態でした。 驚いて事情を聞くと、十兵衛さんは一部始終を二人に語ってくれました。そして、つくづくとこう言ったそうです。漁が良い時には用心して、早く切り上げて帰ること、妖怪が「杓を貸せ」と言ったら素早く杓の底を抜いて貸すこと、そして、妖怪がどんなことをしても絶対に逆らわないこと。
その後、十兵衛さんは好きな魚釣りも出来なくなり、自分が体験した三つの教訓を、漁をする人たちに会うたびに話して聞かせたということです。
|